2016/04/28 4月期 初歩からの宗教学講座
4月28日に行われた「初歩からの宗教学講座」のリポートです。
記:多谷ピノ
2016年4月期の「初歩からの宗教学講座」は、 ヒンドゥー教の続きから始まりました。
ヒンドゥー教に区切りをつけたそのあとは、『大般涅槃経』や『 日本往生極楽記』や山田風太郎氏の『臨終図鑑』や五木寛之氏の『 羨ましい死に方』などをひも解き、日本の「臨終の物語を読む」 という講義が行われました。とても豪華なラインナップでした!
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ヒンドゥー教
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世界で三番目に多い宗教人口を持つヒンドゥー教は、 ヴェーダ聖典を基盤とし、 輪廻や解脱という世界観を持っています。
インドという土地柄もあるのでしょうか、 猥雑とも言えるエネルギーの強さをヒンドゥー教からはびしばしと 感じました。
そんなヒンドゥーの教えのひとつに「スヴァダルマ」があります。 「本務」と訳されるこれは、「それぞれ果たすべき努めがある」 という考えです。「灰皿には灰皿の本務があり、 椅子には椅子の本務がある」。 灰皿の役目なんて今まで考えたこともなかったのに、 すごく説得力がありました。
「スヴァダルマ」は、あらゆるものが神であり、 神と一体になる汎神論につながります。それは哲学へと発展し、「 アドヴィタ」「不二一元論」とも言われます。日本語では「 梵我一如」という言い方の方がおなじみかもしれません。
「梵我一如」、ブラフマンとアートマンは本来ひとつなのに、 私たちはそれらが別々であるような錯覚に陥っている。
だから、「本来はひとつ」 という体験をすれば輪廻から解脱できる。 そんな理論を中世にシャンカラが構築しました。 これは後のヒンドゥー教に多大な影響を与えます。
本来の自分に目覚めることによって神と一体と気づく。
この部分は日本の天台本覚思想と通じるものがあると言われ、 なぜかハッとしました。
近代になって、 ラーマクリシュナがシャンカラのアドヴィダの流れを汲み、 悟りを開いたそうです。「全ての宗教は同じ神へのことなった道」 という言葉を残しています。宗教多元論です。
「すべての川は海へと注ぐ」という、遠藤周作氏の『深い河』 のテーマとなった言葉もラーマクリシュナのものでした。
猥雑なほど強いエネルギーを持つヒンドゥー教だからこそ生まれた 言葉のような気がします。
ヒンドゥー教のエネルギー軸がとても強いことを実感しました。
講義ではヒンドゥー教はここまでで、 次回からは次の宗教をするそうです。それも楽しみです!
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臨終の物語を読む
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さて、ヒンドゥー教のあとは「臨終の物語を読む」 という講義が始まりました。
まずは、仏教の祖、ブッダの臨終の様子からです。『大般涅槃経』 に描かれているブッダの苦痛の様子が生々しいです。
こういうものが2500年以上残っている面白さと、「 ブッダは自らの臨終をクリエイトした」 という釈先生の言葉が印象的でした。
「死の情報をたくさん集めても救われない」
「物語はそれに沿って歩まないと救われない」
そんな釈先生の教えに従い、「情報」ではなく「物語」を求めて、 しばし、平安時代中期からの臨終の事例集を講読しました。
死を超えて続く物語こそ、 宗教の本領だと釈先生はおっしゃいました。事例を読むことで、 死を手元に引き寄せるのだと。
『日本往生極楽記』には、 死ぬときは自分の体を獣に与えてくれと言った教信という人物が描 かれています。教信の死は当時の、 世俗から離れて修行していた高僧・ 勝如の構築していた世界を揺るがしました。 辛い修行をしていた勝如は、「教信の一回の念仏にかなわない」 と世俗から離れた修行を取りやめて、世俗での念仏に生きます。
また、「花が咲いているときに死にたい」 と言っていた老婦人がまさに花の時期に病気になって喜ぶ話も読み ます。これで往生できるのだと老婦人は心から喜び、 それに応えるかのように池の蓮花が西を向いていたと締めくくられ る物語が『日本往生極楽記』の最終話でした。
そこに描かれる死は悲しみではなく祝福でした。「 死に向かう本人」にとっての喜びと、 それを理解して喜ぶ周囲の姿に、 日本仏教の肌感覚の物語を垣間見た気がしました。
前述の教信に憧れた勝如は、 次の年教信と同じ日に息を引き取ったそうです。おそらく、 臨終の間際、勝如は満足していたのではないでしょうか。 少なくとも私にはそんなふうに思い描けました。
教信にも勝如にも会ったことないのに。
でも、それは当然かもしれません。
勝如の物語を読むことで、 私もまた勝如の物語の一部になっているのです。
「物語」に巻き込まれると、見えてくる世界があります。
死に方を考えると生き方も変わってくる、 と先生はおっしゃいました。
そして、もしかしてそれは「 本来の自分に目覚めることによって神と一体と気づく」 ヒンドゥーにもつながるのかと思ったりして、「私」 という小さな物語と、それ以外の大きな物語のことを考えました。